大人の道徳

もう一度読む世界史?数学?出版すべきはもう一度読む道徳じゃないでしょうか。。

卓上のなんとか

誘われたその会の指針には
実践すると幸せになる方法が書いてあった。
 
例1.他人の幸せを考える 
 
しかし、これらを実践すれば幸せになれるようなきが。
 
例1の理由を言えば、人は自分の経験からできたフィルターを通して他者をみるため、自分が幸せなら、そのフィルターを通して他人の幸せな部分を見ることができるから。
 
気付けないのか、わざわざお金を払って、幸せな状態に近づくことができる《手段》をこの講習で教えてもらう。
 
そこで彼らは”実践した→幸せになれた”と、しか認識していない。
 
 
具体的に言えば、ある人がこの教えの通りに、他者の幸せを考えて相手が楽しいであろう話をする。成功すれば相手は楽しい気持ちになり、実践者に対して快く接し、実践者は幸せを感じることができる。ということだ。
しかしここで間違ってはいけないのが、ここでの幸せというのは
《対象者の感情が幸せな状態にある》ということだ。
 
感情が幸せな状態になる方法は一人一人違う。自分が楽しい話をしたからといって相手は楽しいとは限らないし、相手の好きな話をしたからといって相手が楽しいと感じるとは限らない。
 
例としてずっとK君のことが好きだったSさんの話をする。
 
K君は英語がペラペラで(人望もペラペラで)運転もうまく、SさんはK君にぞっこんだったが、なかなか振り向いてもらなかった。
そう悩んでいるときに、周りの友人は
『K君があなたといたいと思うようにすればいいじゃん。例えば、K君の好みの格好をするとか』とアドバイスをしたが、Sさんは『K君の好みの格好はしている。』と回答する。
 
成功しなかったとき、考えるべきことは、別の《手段》のはずなのに、ある《手段》は実行したのに、なんで成功しないの、と怒る。
 
それは思考が”手段実践→結果”しか認識できていないためである。どうして好みの格好をするのか、
それはK君を楽しませ、Sさんといたいと思うようにして、Sさん自身が幸せを感じるため。というところまで落とし込んで理解していない。
 
指針の中に『この会を周りの人に勧める』という項目がある。
彼らの幸せはそこにあるから、他の人の幸せもそこにあると思っている。1.他人の幸せを考える を実行しているのである。
 
彼らの幸せは確かにそこにある。
事実、彼らは幸せを感じている。
 
これは単純な私たちの一つの正解である。